中国の仏教

中国地域への仏教の伝来は、1世紀頃と推定される。

伝来に関する説話は幾つかあるが、最も有名なのは、後漢の永平10年(67年)の明帝と洛陽白馬寺に纏わる求法説話である。また『後漢書』には、楚王英伝に仏教信仰に関する記録がある。

また、1990年代以降、この時代の遺物の意匠中から仏像と見られるものが発見されるなど、考古学的な面からもこの時代に仏像が伝来していたことが立証されている。恐らく、シルクロードを往来する商人が仏像を持ち込み、それから民衆の間に徐々に仏教が浸透していったものと推定される。

また、後漢末期の武将として後世の『三国志演義』にも登場する笮融が、揚州に大寺を建立した事で知られている。

この時代の仏教書としては『牟氏理惑論』や『四十二章経』など、幾つか挙げられるが、いずれも後世に書かれた物であるとの疑いが強い。明帝の求法説話や摂摩騰の『四十二章経』等の翻訳を架空の創作とすると、中国で初めて仏教の経典を翻訳したのは、安息国(パルティア)出身の安世高となる。安世高は『安般守意経』『陰持入経』等の部派仏教の経典や禅観に関する経典を訳した。

また、桓帝の時代に洛陽に入った大月氏出身の支婁迦讖は、霊帝の時代に大乗経典の『道行般若経』『首楞厳経』『般舟三昧経』を訳した。『般舟三昧経』は光和2年(179年)の10月8日に胡本から漢訳された(『道行般若経』は同年10月18日)。なかでも、『般舟三昧経』が説く般舟三昧は禅観法として受容され、東晋の時代に白蓮社が結成されるに至った。

三国・両晋・五胡十六国

紀元3世紀より、サンスクリット仏典の漢訳が開始された。この時代の主流は、支遁(314年 - 366年)に代表される格義仏教であった。訳経僧の代表は、敦煌菩薩と呼ばれた竺法護である。

紀元4世紀頃から、西方から渡来した仏図澄(? - 348年)や鳩摩羅什(344年 - 413年)などの高僧が現われ、旧来の中国仏教を一変させるような転機を起こす。前者は後述の釈道安の師であり、後者は、唐の玄奘訳の経典群に比較される程の数多くの漢訳仏典を後世に残している。

仏図澄の弟子である釈道安(314年 - 385年)が出て、経典目録を作り、経典の解釈を一新し、僧制を制定したことで、格義仏教より脱却した中国仏教の流れが始まる。釈道安の弟子が、白蓮社を結成した廬山の慧遠(334年 - 416年)である。

南北朝

5世紀になると、華厳経法華経、涅槃経などの代表的な大乗仏典が次々と伝来するようになる。また、曇鸞(476年 - 542年)が浄土教を開いた。東アジア独特の開祖仏教はこの時から始まる。

またこの時代、北魏では、太武帝の廃仏(三武一宗の廃仏の第1回目)の後、沙門統の曇曜を中心に仏教が再興され、雲崗には大規模な石窟が開削された。その後、孝文帝が洛陽に遷都すると、仏教の中心も洛陽に移り、郊外の龍門に石窟が開かれた。また、洛陽城内には、永寧寺に代表される堂塔伽藍が建ち並び、そのさまは洛陽伽藍記として今日に残されている。永寧寺の壮大な伽藍を見た達磨は、連日「南無」ととなえていたと伝えられている。

一方、南朝でも仏教は盛んであったが、中でも、希代の崇仏皇帝であり、またその長命の故にか、リア王に比せられるような悲劇的な最期を遂げることになる、梁の武帝の時代が最盛期である。都の建康は後世「南朝四百八十寺」と詠まれるように、北朝の洛陽同様の仏寺が建ち並ぶ都市であった。

このような北魏及び梁の南北両朝における仏教の栄華は、北においては六鎮の乱に始まる東西分裂、南では侯景の乱によるあっけない梁の滅亡によって、一転して混乱の極地に陥ることとなる。そして、それを決定づけたのが、北周武帝の仏教・道教二教の廃棄と、通道観の設置である(三武一宗の廃仏の第2回目)。当時、中国で流行し出していた末法思想と相まって、また、学問的な講教中心の当時の仏教に反省を加える契機を与えたものとして、中国仏教の大きな分岐点の一つとなったのが、この2度目の廃仏事件である。

北周の覇業を継承した隋の文帝は、陳を併合することで、西晋以来の中国の統一を成し遂げる。が、宗教政策においては、武帝のそれを継承せず、仏教復興政策というよりも、儒教に変わって仏教を中心に据えるほどの仏教中心の宗教政策、いわゆる仏教治国策を展開することとなる。漢代以来の長安城の地を捨てて新たに造成され、唐の長安の礎となる大興は、国寺としての大興善寺をその中心に据え、洛陽・建康に代わる仏教の中心地となる。また、文帝はその晩年、崇仏の度を増し、中国全土の要地に舎利塔を建立し、各地方の信仰の中心とした。その年号をとって、仁寿舎利塔と呼ばれる。これが、日本の国分寺の起源となるものである。また、その発想は、インドのアショーカ王が各地に建てたという仏塔(ストゥーパ)に通じている(中国では阿育王塔という)。

隋の第2代皇帝である煬帝は、暴君の悪名高い天子ではあるが、その即位前、晋王時代より、天台智邈を崇敬したことで知られ、智邈より菩薩戒を受けているほか、行在所に初めて内道場を設けてより身近な場所で仏教を信仰した。

6世紀には、次々と仏教宗派が生まれた。但し、中国における宗派とは、日本における各宗派独自の制度を持った独立的な組織としての教団的な色彩は薄く、奈良時代南都六宗に通じるような、講学上や教理上の学派に近いものであった。

* 菩提流支(508年 - 535年)による地論宗
* 真諦(499年 - 569年)による摂論宗
* 達磨(? - 528年?)によるとされる禅宗
* 智邈(538年 - 597年)による天台宗
* 吉蔵(549年 - 623年)による三論宗
* 杜順(557年 - 640年)による華厳宗
* 道綽(562年 - 645年)による浄土教

これらの中で、教団的色彩を持つに至るのは、天台宗禅宗である。禅宗は、第五祖弘忍(602年 - 674年)以後、南北二宗に分裂した。分裂当初は、長安を中心とした唐の中心部、都市部に教線を張った神秀(? - 706年、第六祖)の北宗が優勢であった。

紀元7世紀の最も重要な高僧は、玄奘三蔵(600年 - 664年)である。唐の国禁を破って天竺(インド)へ仏典請来の大旅行を決行した(630年 - 644年)。彼の請来した仏典は、組織的に漢訳が進められ、後世の東アジアの仏教の基盤となった。彼の弟子の慈恩大師基(632年 - 682年)は法相宗を開宗した。

この時代、各宗派は、
善導(613年 - 681年)は浄土教を大成し、
慧能(638年 - 713年)は禅宗諸派中、後に主流となる南宗において第六祖と呼ばれる。
法蔵(643年 - 712年)は華厳宗を確立し、
善無畏(637年 - 735年)金剛智(669年 - 741年)が密教を伝えた。

もう一つ、この時代の仏教で忘れてはならないのは、末法思想に基づく三階教の存在である。各宗派の僧が一緒に住むのが通例であった当時の寺院制度の中で、三階教のみが他宗派とは別組織としての、独自の三階寺院を持つに至った。しかし、三階教は無尽蔵と呼ばれる金融組織を持っていたことなどから、弾圧の対象となり、姿を消すこととなった。

また、唐朝を一時中断させて武周朝を建てた武則天も、妖僧薛懐義を重用し、一種の恐怖政治を行うなど問題が多いが、熱心な仏教信者であった。その武周革命には、偽作とはいえ仏教経典である大雲経を利用しており、日本の国分寺に通じる大雲経寺を各地に建立した。また、同姓の老子(李耳)を祖と仰ぐ唐の慣例で宮中での席次は「道先仏後」と定められていたのを「仏先道後」に改めた。さらに、自身の姿に似せたという大仏を龍門の奉先寺に造営し、その威容は今日まで伝えられている。

紀元8世紀には、不空(706年 - 774年)が密教を大成した。不空の弟子の恵果の密教は、真言密教として日本の空海に伝えられることになる。一方禅宗の方は北宗禅の神秀の下を出た荷沢神会(684年‐758年)が慧能に参じ、自らを七祖とし、慧能禅宗六祖とする南宗禅の立場を確立した。

紀元9世紀は、黄檗希運(? - 850年頃?)、臨済義玄(? - 867年)、趙州従諗(778年 - 897年)らの禅宗(南宗)が盛んであった。

また、この時代、仏教信者の多い宦官勢力に影響されて、仏教を崇敬する皇帝が多く現れた。第11代の憲宗も、そういった皇帝の一人であった。彼は、30年に一度しかいわゆる御開帳されない法門寺の仏舎利長安に迎えて盛大な法会を執行した。韓愈は、「論仏骨表」を上奏し、その偽妄であることを直諌したが、受け入れられる筈もなく、当時は未だ未開発であり、風土病などによって中央の人々から恐れられていた広東省に左遷されることとなった。

しかし、唐の武宗の会昌年間(841年 - 846年)の会昌の廃仏(法難)と呼ばれる仏教弾圧事件(三武一宗の廃仏の第3回目)を契機として、仏教の勢力は急速に衰えることになった。この事件の同時代資料であり、その状況を現代に伝えるのは、日本の入唐僧円仁の入唐求法巡礼行記である。但し、弾圧自体は武宗の治世のみで取りやめられ、次の宣宗以降、仏教は復興することとなる。

廃仏より復興はするが、この時期、唐朝自体が安史の乱以降、各地の節度使勢力によって中央集権的な求心力を失っていたこともあり、往日の長安を中心に繁栄した様が再現されることはなかった。やがて、黄巣の乱を契機として、唐は一気に衰亡の一途をたどった。

五代・宋・元

唐が滅亡した後、五代十国の分裂時代になり、五代最期の後周の世宗によって廃仏事件が起きた(三武一宗の廃仏の第4回目)。

北宋の統一後、宋の太祖は行き過ぎた仏教への投資をやめ、出家制度においては度牒の出売を行なって、国家財政の一助とするとともに、賜額制度、寺院の資産への課税による寺院統制を行い、やがて五山十刹制度として国家の統制の下に管理する事に成功した。

中国地域の仏教は、北宋以降、禅宗浄土教を中心に盛んであったが、元・清の時代には、王朝がチベット仏教に心酔したこともあり、密教も広まった。

また一方で、儒教・仏教・道教の三教が融合する傾向も見られ、インド起源の仏教が次第に本来のインド的な特色を失い、中国的な宗教へと変貌を遂げて行く時期でもある。やがて、その傾向は、仏教とは一線を画した民間宗教としての、白蓮教や白雲宗として、姿を現すこととなる。同時に、それらの民間教派は、時の政府の弾圧の対象、いわゆる邪教として、取り締まられ排斥されるようになる。

明・清

明・清代になると、仏教教団、とりわけ出家者である僧尼には目立った活動をする者が、雲棲袾宏(1535年 - 1615年)ら四大師と称される一部しか見られなくなった。

その一方で、知識層においては在家の居士による居士仏教が盛んとなり、一方では、儒教や仏教、道教の要素を取り入れながらも、それら三教とは一線を画した民間宗教の経典である宝巻を所依の経典とする羅教等の、三教の伝統的教派とは、より異質な民間宗教が現れてくる。これらの教派に至っては、秘密結社である青幇や紅幇との結びつきが密接になった。

清朝末期になると、楊文会を中心とした開明的な居士仏教の運動が起こる。金陵刻経処で新たに経典を刊刻したり、日本の南条文雄や、インド・ヨーロッパの仏教学者と交流をはかるなどの活発な活動を行った。また、当時の思想界にも影響を与えた。

中華民国
中華人民共和国

第二次世界大戦が終わり、中国国民党が台湾に逃れて、共産党により中華人民共和国が成立すると、仏教は国家による多大な弾圧を受けた。特に1960年代の文化大革命には極端な弾圧と破壊が行われ、中でもチベット地域では、多数の寺院が破壊され、多数の僧侶が虐殺され、ダライ・ラマを初めとするチベット政府はインドへ逃れざるを得なかった。

21世紀現在では、中国政府は文化大革命の非を認め、政府の統制の元にある中国仏教協会を中心とした活動を公認し、開放政策に方向転換をしている。日本との国交正常化直後には中国国内の仏教寺院は荒れ果てていたが、現在では日本の寺院や華僑の援助によって沿海部を中心に復興を遂げている。

文化大革命の時期に徹底的な弾圧を受けたチベット仏教はかなり復興したとはいえ、まだ最盛期にはほど遠い。現在も中国政府の抑圧は続いており、僧院には、中国当局の「工作隊」が駐在し、強制的に、僧や尼僧に政治的・宗教的信念の「愛国再教育」を行っている。 1996年から1998年の間に、中国当局による「厳打」キャンペーンにより約500名の僧尼が逮捕され、約1万人が僧籍を剥奪されたといわれる。

天之城ーーチベット

お会いできてうれしいです。--認識你很高興(レンシニ ヘンガオシン)

===チベット自治区===
チベット
東経77-105度、北緯27-40度付近、南はヒマラヤ山脈、北は崑崙山脈祁連山脈
東は横断山脈などに囲まれ、インド亜大陸がアジア大陸に衝突して隆起することによって生成されたチベット高原上に位置する地域。
高原の自然環境に適応した独特の魚類、哺乳類が分布し、また高原内に多数分布する塩湖は、渡り鳥の中継地となっている。
乾燥した気候で、ヒマラヤの南斜面、四川盆地の隣接地域などを除き山の斜面に樹木は乏しいが、
河川に沿った水の豊かな平野部では大麦を主とした農耕が行われ、その背後に広がる草原地帯において牧畜が営まれている。


《拉薩》(ラサ)
チベット語で「神の地」を意味するという。標高3650メートル。
チベットを東から西へ流れる大河・ヤルツァンボ河の支流であるキチュ川の北岸にある。
チベット自治区の政治経済の中心であると同時に、チベット仏教という祈りの中心でもある。
観音菩薩の化身であるダライ・ラマの居住の地であったポタラ宮、巡礼の姿が絶えることない大昭寺。
そのほか、ガンデン寺、デプン寺、セラ寺など、まさに「神の地」と呼ぶにふさわしい厳粛な祈りに満ちた街である。
ラサは、同時に、「太陽の都」とも呼ばれる。標高3658メートル。強い日差しが照りつける。
街をゆくチベット人の頬は紫色に焼けている。見上げる空はどこまでもコバルトブルー。そういう意味でも別天地である。
成都から航空便で入るのが一般的であるが、普通の日本人は多かれ少なかれ、高山反応があるはずである。
健康管理には十分な配慮が必要である。

《清真寺》(せいしんじ)
パルコンから東へ入る。清真料理屋が並ぶムスリムの街があり、石塀に囲まれたイスラム寺院が見えてくる。
ラサには、チベット全土のみならず中国や蒙古から金や銀や宝石など大量の布施が集まったきていた。
それを目当てに多くのイスラムの商人がラサとインドやネパールとの間を往復していた。
彼らのための祈りの場が清真寺であった。

《布達拉宮》<ポタラ宮>  
ラサの町の西の端に位置するマルポ・リ(紅い丘)にある宮殿式建築群。
チベット族の古建築の精華と言っていいだろう。「ポタラ」とは、「観音菩薩が住まう地」の意だという。
観音菩薩とは、その化身とされるダライ・ラマを意味している。
十三階建て、主楼の高さは117メートル。総面積は十三万平方メートル。
白宮と紅宮に分かれる。ダライ・ラマは宗教と政治双方の最高権力者であったわけだが、政治部門は白宮で、宗教部門は紅宮で執り行っていた。
白宮は建物の下層と両側に広がり、紅宮は、白宮に支えられるように、中央部分の八階以上の高層を占めている。
白宮は1645年、ダライ・ラマ五世によって着工。
完成後にダライ・ラマはデプン寺から移り住み、それ以来ずっと、ポタラ宮チベットの宗教と政治の中心であり続けた。
紅宮の完成は1699年。摂政サンゲギャンツォの時代である。
観光は白宮から始まる。白宮七階はダライ・ラマの住居で、現在インドに亡命中のダライ・ラマ十四世の居住していた部屋もある。
紅宮には歴代のダライ・ラマのミイラを納めた霊廟が置かれている。なかでも目をひくのは五世の霊廟。霊塔の高さは十四メートル。3700キログラムの黄金と一万五千個の宝石が使われている。
名高い「カーラチャクラ(時輪)立体曼荼羅」があるのは紅宮の三階。


お会いできてうれしいです。--認識你很高興(レンシニ ヘンガオシン)

===チベット自治区===
チベットチベット文字:བོད་; ワイリー方式:Bod)
東経77-105度、北緯27-40度付近、南はヒマラヤ山脈、北は崑崙山脈祁連山脈
東は横断山脈などに囲まれ、インド亜大陸がアジア大陸に衝突して隆起することによって生成されたチベット高原上に位置する地域。
高原の自然環境に適応した独特の魚類、哺乳類が分布し、また高原内に多数分布する塩湖は、渡り鳥の中継地となっている。
乾燥した気候で、ヒマラヤの南斜面、四川盆地の隣接地域などを除き山の斜面に樹木は乏しいが、
河川に沿った水の豊かな平野部では大麦を主とした農耕が行われ、その背後に広がる草原地帯において牧畜が営まれている。


《拉薩》(ラサ)
チベット語で「神の地」を意味するという。標高3650メートル。
チベットを東から西へ流れる大河・ヤルツァンボ河の支流であるキチュ川の北岸にある。
チベット自治区の政治経済の中心であると同時に、チベット仏教という祈りの中心でもある。
観音菩薩の化身であるダライ・ラマの居住の地であったポタラ宮、巡礼の姿が絶えることない大昭寺。
そのほか、ガンデン寺、デプン寺、セラ寺など、まさに「神の地」と呼ぶにふさわしい厳粛な祈りに満ちた街である。
ラサは、同時に、「太陽の都」とも呼ばれる。標高3658メートル。強い日差しが照りつける。
街をゆくチベット人の頬は紫色に焼けている。見上げる空はどこまでもコバルトブルー。そういう意味でも別天地である。
成都から航空便で入るのが一般的であるが、普通の日本人は多かれ少なかれ、高山反応があるはずである。
健康管理には十分な配慮が必要である。

《清真寺》(せいしんじ)
パルコンから東へ入る。清真料理屋が並ぶムスリムの街があり、石塀に囲まれたイスラム寺院が見えてくる。
ラサには、チベット全土のみならず中国や蒙古から金や銀や宝石など大量の布施が集まったきていた。
それを目当てに多くのイスラムの商人がラサとインドやネパールとの間を往復していた。
彼らのための祈りの場が清真寺であった。

《布達拉宮》<ポタラ宮>  
ラサの町の西の端に位置するマルポ・リ(紅い丘)にある宮殿式建築群。
チベット族の古建築の精華と言っていいだろう。「ポタラ」とは、「観音菩薩が住まう地」の意だという。
観音菩薩とは、その化身とされるダライ・ラマを意味している。
十三階建て、主楼の高さは117メートル。総面積は十三万平方メートル。
白宮と紅宮に分かれる。ダライ・ラマは宗教と政治双方の最高権力者であったわけだが、政治部門は白宮で、宗教部門は紅宮で執り行っていた。
白宮は建物の下層と両側に広がり、紅宮は、白宮に支えられるように、中央部分の八階以上の高層を占めている。
白宮は1645年、ダライ・ラマ五世によって着工。
完成後にダライ・ラマはデプン寺から移り住み、それ以来ずっと、ポタラ宮チベットの宗教と政治の中心であり続けた。
紅宮の完成は1699年。摂政サンゲギャンツォの時代である。
観光は白宮から始まる。白宮七階はダライ・ラマの住居で、現在インドに亡命中のダライ・ラマ十四世の居住していた部屋もある。
紅宮には歴代のダライ・ラマのミイラを納めた霊廟が置かれている。なかでも目をひくのは五世の霊廟。霊塔の高さは十四メートル。3700キログラムの黄金と一万五千個の宝石が使われている。
名高い「カーラチャクラ(時輪)立体曼荼羅」があるのは紅宮の三階。

中国観光名所ーー四川

これ以上飲めない−−−不能再喝了(ブノンザイホオラ)

中国の伝統では、人に無理やりお酒を勧めるのは勧められた人に対する熱情があると認められています。
一気などよく宴会でやっています。酒癖よくないですが、飲んだ量が多ければ多いほど、喜ばれますので。
いまではそんなに必死に飲まないですが、東北方面では、伝統として、いまだにも「一気飲み」などが保っています。


==四川省==
四川省(しせんしょう)は中華人民共和国西南部の省。
略称は川あるいは蜀。省都成都
西部はチベットのアムド、カムより編入された

成都市》(せいと)
四川省省都四川盆地の西部に位置し、温順な気候、豊かな水脈にも恵まれ、古来より物産の豊富な地であった。「天府の国」という。
劉備玄徳がこの地に蜀漢の国を建てたのは、三国時代221年のこと。
また、杜甫がこの地に庵をあみ放浪の人生にあって比較的落ち着いた生活を送ったのは八世紀のこと。
四川料理の本場でもある。「麻婆豆腐」や「担々麺」など日本人にも馴染みの料理は多い。
ただし、唐辛子や山椒の効かせ方はチョット違う。シビレます。

九寨溝》(きゅうさいこう)
世界遺産に登録されている風景区。一帯に九つのチベット族の村落があるために九寨溝と名付けられた。
岷山山脈にあり、40キロにわたり深い渓谷が続く。
山々が折り重なり、その山々は原始林に覆われ、それらを取り囲むように四季雪を戴いた高峰が連なる。
その渓谷に沿って無数の湖や滝が点在する。湖の数は100余り。
水は澄み、湖面は鏡のように静かである。
湖底にまだら模様の岩石が沈積しているために光の当たり具合で藍色、黄色、緑色に変化する。
懐深く原始林に分け入り、水と光の織りなすハーモニーを聞くような風景に身を浸すことができる。
黄龍とならび中国が世界に誇る風景区である。

楽山大仏》(らくざんだいぶつ)
凌雲山を背にして岷江を見下ろすように座している。唐の時代、治水と航行の安全を祈願して、九十年の歳月をかけて彫られた。完成は803年。
高さ71メートル、幅29メートル。ユネスコ世界遺産にも指定された中国最大の石刻坐佛である。足の甲に100人が乗れるという。
「山は佛、佛は山」と言われるようにひとつの山ごと仏像になったような堂々とした構えである。

峨眉山》(がびざん)
四川盆地西端、青衣江の流域にあたる。楽山の西45キロ。標高3099メートル。
西から東に向かって大峨、中峨、小峨と三山が連なる。北魏時代の地理書・水経注に曰く「山は成都を去ること千里。
秋日、清澄なれば、両山を望見でき、相対峙すること蛾の眉のごとし」。仏教、道教ともに聖地とする。
特に仏教では、四大名山のひとつとする(他の三つは、普陀山九華山、五台山)。
気象条件から霧に覆われることが多い。遠望しても、また、山に入り雲海のなかを歩いても、古来「仙境」と呼び慣わされてきたように、神秘的な雰囲気に満ちた山である。

中国の首都ーー北京

これは何ですか?−−這是什麼(ジェシシェマ)
それ(あれ)は何ですか?−−那是什麼(ナシシェマ)



北京(ペキン、拼音: Běijīng / ベイジン)は、中華人民共和国の首都であり、直轄市
中国共産党中央委員会の所在地。中国の東部、河北省の中央部に位置する。
古くは大都・燕京・北平とも呼ばれた。日本語での読みは唐音である。
面積は 16,808 km² (全国で29位)日本の四国に相当する。中国第三の都市である。
市花は月季、菊、市樹は側柏、国槐 である。

観光地

天安門>(てんあんもん)

中国のシンボル。北京市の市街中心部に位置する。
明・清両期の皇城の正門で、創建は明の永楽15年(1417)。初めは承天門といったが、清の順治8年(1651)の改築後、現在名に改称。
宮殿建築の二階建ての楼閣で高さは33.7m。下の部分は城門で、通路が五つある。その城門の中央には毛沢東の肖像が掲げられている。
その上に建つのが天安門の城楼で、黄色の瑠璃瓦に赤い壁。きわめて壮麗である。
明、清時代には皇帝の即位や皇后の冊立などの重大な国事の際はこの楼上よりみことのりを発した。
1949年10月1日に毛沢東中華人民共和国の成立を世界に向けて宣言したのもこの楼上である。
城楼の下を流れる金水河には、精緻な彫刻を施した漢白玉石の「金水橋」と呼ばれる橋が五つ架かる。
前面には、雄壮な石獅と華表が一対ずつ配されている。
華表というのは中国で皇宮などの前に建てる標柱で、ここでは漢白玉石の円柱に彫刻が施されている。
また、正面には長安街をはさんで南側には東西500m、南北880mの天安門広場が広がる。
天安門を背に左には中国革命博物館・中国歴史博物館、右には人民大会堂がそびえる。中国の首都・北京を象徴する堂々たる景観を誇る。
現在は門の上に上ることが出来る。そこから見渡す天安門広場はまた格別。
楼内には、1949年10月1日に毛沢東が楼上から新中国の成立を宣言する場面を描いた絵が掛けられている。

人民大会堂>(じんみんだいかいどう)
日本の国会に当たる建物である。天安門広場の西側、高さ46メートル、南北の長さ336メートル、東西の長さ206メートル、建築面積17万平方メートル。
大会堂の正面は12本の大理石で支えられており、その高さは25メートル。
東の正面からはいると、そこは中央大ホール。床は桃紅色の大理石、柱は漢白玉の石柱、天井には水晶ガラスの灯りが吊されている。
全国人民代表大会などが開かれる大講堂は、中央大ホールの後ろにある。
また、大小様々な宴会場も大会堂には備えられており、それらには、「北京市の間」とか「黒竜江省の間」とか、中国の直轄市、省の名が付けられている。
最も大きな大宴会場は、5000名を収容できる。

故宮博物院>(こきゅうはくぶついん)
旧称を紫禁城といい、北京市の市街中心部にある。
明・清両代の皇宮で、明の永楽4年(1406)に着工、同18年に基本的に完成し、それ以来、560年余りの間に24人の皇帝が主となった。
72万??余りの敷地に9000室余りの建物があり、延床面積は約15万??。
周壁は長さ約3kmで、周壁の外側に幅52メートルの護城河(堀)がめぐらされてている。
東西南北に各一門があり、南が正門の午門、北が神武門、東が東華門、西が西華門である。
殿宇の配置は大きく外朝と内廷の二つに分かれる。外朝は、太和・中和・保和の三大殿が中心をなし、その両翼に文華・武英両殿を配し、皇帝が儀式を行い、群臣を召見するなど公的な場所であった。
内廷は乾清宮・交泰殿・坤寧宮と東六宮、西六宮などからなり、皇帝が日常の政務を処理し、后妃と皇子が生活し、祭祀を行うところであった。
故宮の建物には気迫がみなぎり、豪壮華麗で、中国の古建築の粋を集める。
勿論、博物館としても一級で収蔵品は百万点に及ぶとされる。北京随一の見所といってもよいだろう。1987年、ユネスコ世界文化遺産に登録。

<長城―八達嶺>(ちょうじょう―はったつれい)
延慶県にある。長城の要衝のひとつ。
長城の全長は6700kmで、「月から見える地上唯一の建造物」と言われる。
はるか春秋・戦国時代から諸侯の国がたがいに防御するために城壁を築いたのが起源で、中国を統一した秦がその城壁を基礎に万里も連なる長城を築き、今日の長城の規模が定まった。
その後も代々、改修して利用され、明代にいたって、北方ではいぜんとしてモンゴル族の進攻、
東北でも女真族の勃輿がみられたので、従来の城壁の版築の部分を磚・石造りに改め、西は嘉峪関(甘粛省)から東は山海関(河北省)まで1万余里(2400km)を整備し、城壁沿いに多数の烽火台を設けた。
八達嶺付近の長城は地形を利用し、高さ7.5m、厚さ約4mで、上部は騎馬が五列、兵士が十列で進むことができる幅をもつ。
防御上の必要から、尾根の高所、城壁の曲り角、重要な地点に堡塁式の城台を設けた。階上と階下に分かれ、階上には四面に鋸壁をめぐらし、階下は軍隊の駐屯や武器の保管ができるように空洞とした。
八達嶺では、入り口を入ると左右どちらにでも登れる。左右それぞれ「男坂」「女坂」と呼び習わされ、坂の角度に違いがある。
右の「女坂」の方が一般的かと思われるが、こちらも四つ目の城楼までくれば、山を縫って長城が延々と連なる様が見える。
この辺りの長城の修復は年々進んでおり、その気になれば、三時間でも四時間でも歩いて行くことが出来る。

頤和園>(いわえん)
北京市の市街から約15キロ、海淀区にある。
中国の名園のひとつに数えられる。歴代の皇帝の行宮・庭園であった。
造園は十二世紀なかば。金代に始まるが、離宮として整ったのは、清の乾隆帝以後のことである。
1860年に英仏連合軍によって破壊されたが、光緒14年(1888)に西太后が海軍の経費を流用して改修して現在名に改め、避暑地とした。
総面積は290ヘクタールで、そのうち4分の3は昆明湖の水面である。
頤和園は、西太后や光緒帝など清代末期の支配者のゆかりの地で、近代史との関係が深く、当時の重大な歴史的事件の痕跡を多数留める。
辛亥革命後、1914年に一般公開され、1924年に正式に公園となった。

円明園>(えんめいえん)
海淀区の東部にある。清朝離宮の跡。「万園の園」と讃えられる豪華きわまる庭園であったが、第二次アヘン戦争で英仏連合軍の徹底的な破壊を受け廃墟となった。
約350ヘクタール、周囲10キロの広大な庭園であった。
康煕48年(1709)に康煕帝の第4子胤禎(のちの雍正帝)に下賜され、その後改修と拡張を重ね、付設の長春園・綺春園(のちに万春園と改称)とともに円明三園と総称されるようになった。
建物や庭園は、中国の伝統的な技術を集めるとともに、西洋建築の特色も取り入れている。
円明園の正門を入ると、皇帝が政務を処理する正大光明殿があり、そのそばには江南の名園の名勝を再現した福海がある。
また、四庫全書を収めた文源閣をはじめ、俗に西洋楼というヨーロッパ風の宮殿と庭園も長春園の北部に造営された。
建物や景観だけでなく、書物や書画、文物や宝石を収蔵し、文化・芸術の宝庫であった。
このように、清王朝が150年の歳月をかけ営々と築いてきたものであったが、咸豊10年(1860)に英仏連合軍(第2次アヘン戦争)により、一瞬のうちに廃墟と化した。現存するのは長春園の西洋楼の残骸のみ。

中国のトップ都市ーー上海

知りません・知っています−−不知道(ブジドオ)知道(ジドオ)
分かりません・分かりました−−不明白(ブミィンバイ)明白了(ミィンバイラ)

今日の旅行は中国の第一都市ーー上海を紹介させていただきます。
【上海】
●地理
 上海(シャンハイ、Shanghai、普通話:Shànghǎi、上海語:ザンヘー [zɑ̃ hɛ])は中華人民共和国にある直轄市の一つ。
 中国大陸東沿岸部に位置し、長江の河口に面して存在する都市。
●概況
 上海略称は滬(簡体字は沪)だが、古称の申も用いられる。
 政府所在地 黄浦区人民大道200号
 面積 6,340.5 km² (31位)
 人口 (2006年) - 18,670,000 (25位)
 県級行政区 19 (1県、18市轄区)
 郷級行政区 220 (3郷、118鎮、100街道)
 中華人民共和国最大の商業・金融・工業都市で、一人当たりGDPは香港以外では国内最高水準である。
 現在の中華人民共和国の経済の成長により、将来的に上海経済がニューヨークや東京、ロンドンと共に世界経済を引っ張る重要な位置を占めるであろうといわれている。
●観光名所
 ▲外攤(わいたん)
 黄浦江に沿って石造りの建物が建ち並んだ。
 欧米資本主義の強さの誇示であり、中国にあって中国でない場所であり、アールデコルネッサンス、ゴシックなどの諸様式の展示場のようでもあった。
 それらの屋根屋根が切り取るスカイラインの美しさは広く世界中に喧伝されたものだ。
 川下から、日本の占領期間中は児玉機関がはいっていたブロードウェイマンション(現上海大厦)、中国銀行総行(現中国銀行上海分行)、サッスーン・ハウス(現和平飯店北楼)。
 サッスーンはユダヤ系のイギリス人財閥。上海の全資産の二十分の一を所有していたという。その総本山がサッスーン・ハウスであった。
 さらには、キャセイホテル(現和平飯店北楼)、少し飛んで時計台のそびえる江海関(現上海税関)、香港上海銀行(現上海浦東発展銀行)と続く。
 特に、香港上海銀行は1923年の竣工。新古典主義建築の壮大にして華麗な建物で、当時「スエズ運河からベーリング海峡における最高傑作の建築」と言われた。
 今は、黄浦江に沿って遊歩道ができており、川風に吹かれながら、それらの建物群を見ながらの散歩が楽しめる。
 ▲ 人民公園(じんみんひろば)
 租界時代には競馬場であった。
 イギリス人は、黄浦江に沿って石造りのビルを建て並べた。これが、いわば上海の玄関口であった。
 そして、奥まったところに、自分たちの享楽の場を造った。それが競馬場であった。南京路は、もともと、外攤と競馬場を繋ぐ道として造られた。
 新中国成立後は、人民公園として市民の憩いの場になり、
 現在は、その人民公園を取り囲むように広大な人民広場が造られ、上海市政府庁舎、オペラハウス、上海博物館など新しい上海のエネルギーを象徴するような建物が建てられている。
 ▲豫園(よえん)
 明代に造られた個人の庭園。この地の出身で四川の長官を務めた潘允瑞が両親のために造ったという。
 名称の由来も、「豫悦老親」(老いた親を悦ばせる)という言葉にある。
 一時荒廃したが、1956年より修復され、明代の江南の庭園様式を再現している。
 敷地の面積は二万平方メートル。さほど広くはないが、池や、楼閣や巨石、太湖石を配し、そこに道をくねらせ、ゆっくり廻って一時間半ほどのコースになっている。
 豫園の西側と北側に隣接するのが豫園商城。明清の建築様式の建物の中に小さな店がびっしりと並ぶ。
 箸の専門店、漢方薬、シルク専門店、お茶、切り紙細工。一年中がお祭りのような賑やかさ。
 ▲上海博物館(しゃんはいはくぶつかん)
 中国に博物館は多いが、上海博物館は建物、設備、ディスプレイの仕方など、すべての意味で最も現代的な部類にはいるだろう。
 四階建て。一階は青銅器、二階は陶磁器、三階は絵画と書道、四階は古銭と玉器。所蔵品数は12万点。
 どのフロアーも充実しているが、なかでも目を見張らせるのは、一階の「中国古代青銅器館」。
 青銅器だけでも、所蔵は七千を超えるという。夏あるいは商代初期の製造とされる「連珠文管流角」や重量200キログラムを越える周代の「大克鼎」などが代表。

中国の観光名所ーー済南

おめでとうございます−−−恭喜(ゴンシ)
人のめでたいことがあれば、「恭喜」を二回か二回以上言うことです。

昨日の「毎日中国語」で私の故郷「青島」を紹介させていただきました。
今日は、山東省の省都済南の観光名所を紹介させていただきたいと思います。

 《済南市》(ジナン)
 山東省の省都黄河下流域、四千年前に栄えた龍山文化の発祥地のひとつ。
 春秋戦国時代に斉国の都であった。漢代に済水の南に位置することから済南と呼ばれるようになった。
 済水はいまは大清河と名を変えたが、黄河の氾濫などで川筋は時代により何度も変遷してきている。
 古来より水の都として知られ、町のあちこちに泉が湧く。済南72泉などという。

山東省博物館>(さんとうしょうはくぶっかん)
 市の南、千仏山の麓にある。1955年に新中国初の省クラスの博物館として正式に設立。
 翌56年に地志的な基本陳列を完成し開館。8000点余りの自然科学関係の標本と13万点余りの革命・歴史関係の文物を収蔵する。
 歴史の古い山東省だけに、七千万年前の山東恐竜の化石、四十万年まえの猿人の化石、四千年前の龍山文化の陶器、春秋戦国時代の「孫子」「管子」「墨子」などの古籍など多彩。

<趵突泉>(しゃくとつせん)
 済南市の西門橋の南方0.5kmにある。
 済南は水に恵まれ、「七十二泉」と総称されるほどの良質な泉があるが、趵突泉はその第一泉とされる。
 古くは瀑流・檻泉ともいわれていた。趵突泉という名は宋代からのもの。跳躍奔突の意である。
 湧き出る水の量は毎秒1600リットルと言われる。量のみならず、水質は芳醇で、お茶をいれるのに適しており、宋代の曾鞏(1019〜83)に「潤沢の春茶 味更に真」の句がある。
 伝聞では、清の時代、乾隆皇帝が江南を巡幸するときに、北京から北京の玉泉水を持ち運んできたが、済南でこの泉の水を飲んだ後直ちに水を換えさせた、という。
 1956年、付近の名泉・旧跡を含み込む形で突泉公園とされた。豊かな水、それを囲むように建てられている古代の建築群と柳。味わいの深い公園である。

<李清照紀念堂>(りせいしょうきねんどう)
 趵突泉公園の漱玉泉の北岸にある。
 李清照(1084〜1151?)は易安居士と号し、済南出身の女流詞人。
 詩集に「漱玉詞」がある。詩文と書画に秀で、夫の超明誠(1081〜1129)とともに『金石録』をも編む。
 特に詞に大きな業績を残し、婉約派の祖。この辺りに暮らしていたという。
 1956年の建造で、1980年に改修。宋代の建築様式で造られている。
 李清照の画像、生前の事績、さまざまな版本の著作を展示。

<大明湖>(たいめいこ)
 済南市の旧城の北部にある。
 珍珠泉・芙蓉泉・王府池など多数の泉水が流入し、湖面は46.5ha。一年を通じて水量は豊か。
 北魏道元(469〜527)の『水経注』に、城の西南に?水あり、その「北、大明湖と為す」とあるのが、初出で、宋代には四望湖といった。
 のちに徐々に土砂が堆積して半分が市街となり、金代から現在の城内湖を大明湖というようになった。
 湖中にはハスが多く、夏には花が美しい。また、湖畔には亭台や楼閣が多く、蓮や柳とあいまって華麗な景色をなす。杜甫李白も訪れている。遊覧船での周遊も可能。
 趵突泉と千仏山と大明湖をあわせて「済南三大名勝」といわれる。

<千仏山>(せんぶつざん)
 古くは名歴山といい、済南市の市街南方2.5キロにある。
 この地で帝舜(伝説上の皇帝)が農耕に従っていたと伝え、舜耕山ともいう。
 隋の開皇年間(581〜600)に全山の岩壁に仏像を彫ったので、千仏山と呼ばれるようになった。
 海抜285mで、緑が多く、東西にそれぞれ300段前後の登山道があり、渓谷沿いに曲折し、中腹から北を望むと、済南北方の山並みを見渡すことができる。
 絶壁の下に唐の貞観年間(627〜649)創建の興国寺があり、境内の千仏崖に隋の開皇7年(587)から唐の貞観年間にかけて彫った多数の仏像がある。
 崖下の極楽・竜泉・黔婁などの洞穴の壁にも多数の仏像が彫られ、近年その大半を修復。
 伽藍背後の山上の一覧亭に登って遠望すると、大明湖や黄河を一望することができる。いまは山頂へのリフトも通じている。

<大仏頭>(だいぶっとう)
 済南市街の北方3.5km、歴城県の仏慧山の北斜面にある。
 岩に高さ7.8m、幅5.35mの仏頭が彫刻されており、これを一般に大仏頭と呼ぶ。
 製作年代は、北宋の景祐年間(1035)説と唐の天宝年間(742〜756)説があり、まだ確定していない。

<黄石崖>(こうせきがい)
 済南市の東南部、螺絲頂山主峰の西側にある。岩肌が黄色いので黄石崖という。
 北魏の正光4年(523)から東魏興和2年(540)にかけて彫られ、山沿いに岩壁と天然の洞窟の中に分布し、大小あわせて19の仏龕と85体の仏陀と菩薩のレリーフがある。
 保存状態は良好で、芸術的価値も高いとされている。

<千仏崖造像>(せんぶつがいぞうぞう)
 歴城県柳埠村、白虎山の絶壁にある。南北65mにわたって大小あわせて100余りの石窟と211体の仏像がある。
 大半は唐代初期のものである。造像の題記はあわせて43条あり、そのうち年代を記すものは10条ある。
 唐の太宗の第三女の南平公主が、顕慶2年(657)に父のためにつくったといわれるものは、千仏崖において最も優美な造像のひとつである。

<四門塔>(しもんとう)
 歴城県柳埠村の青竜山の麓、神通寺の遺構の東側にある。建立年代は、隋の大業7年(611)。
 塔身は大きな青石を積み上げた単層方形で、高さ15.04m、各辺とも7.4m。四面に半円形のアーチ門が1つずつあるので、四門塔と俗称されてきた。
 この形式の石塔としては、中国の現存最古。四面に後人の移設した石仏が1つずつある。

<九頂塔>(きゅうちょうとう)
 歴城県柳埠村、霊鷲山の九塔寺の遺構にある。唐代の建立。八角単層で高さ13.3m。
 塔頂に小塔が9つある。南面に仏室があり、木彫の仏陀をひとつ、僧侶をふたつ安置。
 周囲の壁に壁画が残存。


今度の観光名所の写真全部揃いました!大変だったです><興味のある方がぜひ見てくださいね〜〜

行きたいところ

私は**へ行きたいです−−−我要去**(ウォーヤオチュー**)

旅行3:
●長い歴史と広大な土地をもつ中国。日本がもっとも古くからつながりをもつ国だ。
 中国を代表する大都市北京、上海は近代化の波にのり毎日違った顔を見せてくれる。
 西安、広州、桂林など魅力的な都市は中国全土に広がる。
 偉大なる歴史的文化遺産、美麗な景色、なにをとってもそのスケールの大きさに驚かされる。
 またどこへ行ってもおいしい本場中国の味に舌鼓を打つことだろう。
 東西南北、中国への興味は尽きることがない中国。



●日本から中国へのフライト時間 (日本航空
 成田から北京まで約4時間
 成田から上海まで約3時間30分
 成田から広州まで約5時間30分