中国歴史名人ーーー三国演義奸雄ーー曹操
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曹操(そう そう、Cáo Cāo、155年 - 220年1月23日)
中国後漢末の武将、政治家、詩人。字は孟徳、幼名は阿瞞また吉利。
沛(はい)国譙(しょう)県(現在の安徽省亳州市)の人。
廟号は太祖、謚号は武皇帝。後世では魏武帝、魏武とも呼ばれる。
父は曹嵩。曹嵩はもともと夏侯氏であったが、中常侍・大長秋曹騰の養子となり曹氏を継いだ(高位の宦官は養子をとって家名を存続することが可能だった)。
曹氏の先祖は前漢の平陽侯曹参とされるが疑わしい。
また、曹嵩の実家である夏侯氏の先祖は前漢の汝陰侯夏侯嬰とされている。魏将、夏侯惇、夏侯淵とは従兄弟にあたる。
●人物
『三国志』に登場する人物は、背が高い、見目麗しい、髭が立派、など、立派な外見をしていると書かれている者が多い。
そんな中で曹操はあまり風采が上がらなかった。
それに加えて、曹家は名臣曹参の裔を称していたものの、祖父の曹騰が宦官である事から、常に士大夫層からその事を馬鹿にされていた。
たとえば、袁紹の謀臣であった陳琳は曹操との戦いに向けた檄文の中で曹操を「贅閹の遺醜」(宦官という薄汚い存在の臭い倅、といったような意味)と罵倒している。
しかし、そのような逆境が曹操に「家柄などによらず、人が個々の才能に応じて正当に評価される世を作りたい…」という思いを
強めさせたのだと思われる(前述の陳琳も後にその文才を曹操自身によって認められ、取り立てられている)。
月旦評で有名な後漢の人物批評家許劭(許子将)は、曹操のことを「治世の能臣、乱世の奸雄」
(「子治世之能臣亂世之姦雄」『魏志武帝紀』)、もしくは「治世の奸臣、乱世の英雄」(「君清平之姦賊亂世之英雄」『後漢書許劭伝』)と評した。
演義では「爪黄飛電」、「絶影(影もとどめぬという意味。絶影については正史の注である魏書にも記述がある)」を愛馬とし、対をなす「倚天の剣」、「青詇の剣」という宝剣を作らせる。
●事績
他の群雄達が兵糧確保の為に農民から略奪するだけの強盗まがいの事をしていた当時に、
曹操は韓浩に提言された屯田と呼ばれる農政を行っていた。屯田とは戦乱のために耕すものがいなくなった農地を官の兵士が農民を護衛して耕させる制度である。
この政策により曹操軍は食料に事欠かないようになり、各地の食い詰めた民衆達を大量に集める事が出来たのである。この屯田が曹操が勝ち残った理由のひとつである。
曹操は文章家でもあり、兵書『孫子』を現在残る十三篇に編纂したのは曹操である(演義では、
『孫子』に倣って十三篇に編纂した自著の兵法書である『孟徳新書』を張松に笑われた事で怒り焼き捨てているが、
これが恐らく『孫子』の注釈書の事ではないかと言われている。勿論焼き捨てられてはいない)。
漢詩にも卓越しており、赤壁の戦いの際に歌った「短歌行」は『文選』に収録されている。
彼の作品で現存するものは多くないが、それらの詩文からは、民衆や兵士の困苦を憐れむ気持ちや、
乱世平定への気概が感じられる。文武両面に非凡な才能を見せた曹操を陳寿は「非常の人、超世の傑」
(非常な才能の持ち主であり、時代を超えた英雄である)と評しているが、徐州における虐殺については酷評している。
現在の日本の酒造業界において尚行われている「段掛け方式」という醸造法は、曹操が発明した「九蒕春酒法」のことである。
曹操が後漢の献帝に上奏した九蒕春酒法の上奏文は、今日も現存している。
屯田以外の曹操の政治上の業績は、強制婚姻による兵雇制度の改革、権限の一元化によって朝廷内の意思を統一するため
三公を廃止して丞相と御史太夫を設立、有能な人物であれば過去を問わず採用する求賢令、