中国歴史名人ーー戦闘の皇帝!チンギス・ハーン

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チンギス・ハーン(1162年頃? - 1227年8月18日)ーーーー成吉思汗(チアンジスハン)
モンゴル帝国の初代大ハーン
在位1206年 - 1227年。

一代で大小さまざまな集団に分かれてお互いに抗争していたモンゴルの遊牧民諸部族を統一し、
中国北部、中央アジア、イランなどを次々に征服してモンゴル帝国を築き上げた。

その帝国がチンギスの死後百数十年を経て解体した後も、その影響は中央ユーラシアにおいて生き続け、
遊牧民の偉大な英雄としてチンギス・ハーンは賞賛された。

とくに故国モンゴルにおいて、チンギス・ハーンは神となり、現在のモンゴル国においては国家創建の英雄として称えられている。

●名前

チンギス・ハーンの同時代のモンゴル語による表記は Čingγis Qan で、チンギス・カンと発音した。

漢字では、「成吉思汗」と書かれるが、これは「チンギス・カン」という発音を漢字に写したものである。

後裔である元朝によってつけられた中国風の廟号は太祖、諡は法天啓運聖武皇帝といい、元の初代皇帝として扱われる。

●生涯

チンギス・ハーンの先祖と生い立ち

チンギス・ハーンの生まれたモンゴル部は遊牧ウイグル帝国の解体後、バイカル湖の方面から南下してきてモンゴル高原の北東部に広がり、
11世紀にはハンを頂く有力な集団に成長した遊牧民であった。

チンギス・ハーンの生涯を描いたモンゴルの伝説的な歴史書元朝秘史』によれば、
その遠祖は天の命令を受けてバイカル湖のほとりに降り立ったボルテ・チノ(「灰色斑模様の狼」の意)とその妻なるコアイ・マラル(「白い鹿」の意)であるとされる。
ボルテ・チノの11代後の子孫ドブン・メルゲンは早くに亡くなるが、その未亡人アラン・ゴアは天から使わされた神人の光を受けて、
夫をもたないまま3人の息子をもうけた。チンギス・ハーンの所属するボルジギン氏の祖となるボドンチャルはその末子である。

●帝国の建設
1205年、テムジンは高原内に残った最後の大勢力である西方のナイマンと北方のメルキトを破り、宿敵ジャムカをついにとらえて処刑した。
やがて南方のオングトもテムジンの権威を認めて服属し、高原の全遊牧民はテムジン率いるモンゴル部の支配下に入った。

翌1206年2月、テムジンはフフ・ノールに近いオノン川上流の河源地において功臣や諸部族の指導者たちを集めてクリルタイを開き、
諸部族全体の統治者たる大ハーンに即位してモンゴル帝国を開いた。

チンギス・ハーンという名はこのとき、イェスゲイ一族の家老モンリク・エチゲという人物の息子で、モンゴルに仕えるココチュ・テプテングリというシャーマン(巫者)がテムジンに奉った尊称である。

「チンギス」という語彙の由来については確実なことはわかっていないが、もともとモンゴル語ではなくテュルク語からきた外来語であったとみられ、
「海」を意味するテンギズを語源に比定する説や、「烈しい」を意味したとする説、「世界を支配する者」を意味したとするなど、さまざまに言われている。

チンギス・ハーンは、腹心の僚友(ノコル)に征服した遊牧民を領民として分け与え、
これとオングトやコンギラトのようにチンギスと同盟して服属した諸部族の指導者を加えた領主階層を貴族(ノヤン)と呼ばれる階層に編成した。

最上級のノヤン88人は千人隊長(千戸長)という官職に任命され、その配下の遊牧民は95の千人隊(千戸)と呼ばれる集団に編成された。
また、千人隊の下には百人隊(百戸)、十人隊(十戸)が十進法に従って置かれ、それぞれの長にもノヤンたちが任命された。

戦時においては、千人隊は1000人、百人隊は100人、十人隊は10人の兵士を動員することのできる軍事単位として扱われ、
その隊長たちは戦時にはモンゴル帝国軍の将軍となるよう定められた。
各隊の兵士は遠征においても家族と馬とを伴なって移動し、一人の乗り手に対して3、4頭の馬がいるために常に消耗していない馬を移動の手段として利用できる体勢になっていた。

そのため、大陸における機動力は当時の世界最大級となり、爆発的な行動力をモンゴル軍に与えていたとみられる。

千人隊は高原の中央に遊牧するチンギス・ハーン直営の領民集団を中央として左右両翼の大集団に分けられ、
左翼と右翼には高原統一の功臣ムカリとボオルチュがそれぞれの万人隊長に任命されて、統括の任を委ねられた。

このような左右両翼構造のさらに東西では、東部の大興安嶺方面にチンギスの3人の弟ジョチ・カサル、カチウン、テムゲ・オッチギンを、
西部のアルタイ山脈方面にはチンギスの3人の息子ジョチ、チャガタイ、オゴデイにそれぞれの遊牧領民集団(ウルス)を分与し、
高原の東西に広がる広大な領土を分封した。

チンギスの築き上げたモンゴル帝国の左右対称の軍政一致構造は、モンゴルに恒常的に征服戦争を続けることを可能とし、その後のモンゴル帝国の拡大路線を決定付けた。

クリルタイが開かれたときには既に、チンギスは彼の最初の征服戦である西夏との戦争を起こしていた。

堅固に護られた西夏の都市の攻略に苦戦し、また1209年に西夏との講和が成立したが、
その時点までには既に西夏の支配力を減退させ、西夏の皇帝にモンゴルの宗主権を認めさせていた。

更に同年には天山ウイグル王国を服属させ、経済感覚に優れたウイグル人の協力を得ることに成功する。

●最後の遠征
西征から帰ったチンギスは広大になった領地を分割し、ジョチには南西シベリアから南ロシアの地まで将来征服しうる全ての土地を、
次男チャガタイには中央アジアの西遼の故地を、三男オゴデイには西モンゴルおよびジュンガリアの支配権を与えた。

末子トルイにはその時点では何も与えられないが、チンギスの死後に末子相続により本拠地モンゴル高原が与えられる事になっていた。
しかし、ハーン位の後継者には温厚な三男のオゴデイを指名していたとされる。

これより前、以前に臣下となっていた西夏の皇帝は、ホラズム遠征に対する援軍を拒否していたが、その上チンギスがイランにいる間に、
金との間にモンゴルに反抗する同盟を結んでいた。

遠征から帰ってきたチンギスはこれを知り、ほとんど休む間もなく西夏に対する懲罰遠征を決意した。
1年の休息と軍隊の再編成の後、チンギスは再び戦いにとりかかった。

1226年初め、モンゴル軍は西夏に侵攻し、西夏の諸城を次々に攻略、
冬には凍結した黄河を越えて首都興慶(現在の銀川)より南の都市霊州までも包囲した。

西夏は霊州救援のため軍を送り、黄河の岸辺でモンゴル軍を迎え撃ったが、
西夏軍は三十万以上を擁していたにもかかわらず敗れ、ここに西夏は事実上壊滅した。

翌1227年、チンギスは興慶攻略に全軍の一部を残し、オゴデイを東に黄河を渡らせて陝西、
河南の金領を侵させた。自らは残る部隊とともに諸都市を攻略した後、興慶を離れて南東の方向に進んだ。

『集史』によれば、南宋との国境、すなわち四川方面に向かったという。
同年夏、チンギスは夏期の避暑のため六盤山に本営を留め、ここで彼は西夏の降伏を受け入れたが、金から申しこまれた和平は拒否した。

ところがこのとき、チンギスは陣中で危篤に陥った。
このためモンゴル軍の本隊はモンゴルへの帰途に就いたが、西暦1227年8月18日、チンギス・ハーンは陣中で死去した。

彼は、死の床で西夏皇帝を捕らえて殺すよう命じ、また末子のトルイに金を完全に滅ぼす計画を言い残したという。
チンギス・ハーンは一代で膨張を続ける広大な帝国をつくり、その死後には世界最大の領土をもつ帝国に成長する基礎が残された。