中国の首都ーー北京

これは何ですか?−−這是什麼(ジェシシェマ)
それ(あれ)は何ですか?−−那是什麼(ナシシェマ)



北京(ペキン、拼音: Běijīng / ベイジン)は、中華人民共和国の首都であり、直轄市
中国共産党中央委員会の所在地。中国の東部、河北省の中央部に位置する。
古くは大都・燕京・北平とも呼ばれた。日本語での読みは唐音である。
面積は 16,808 km² (全国で29位)日本の四国に相当する。中国第三の都市である。
市花は月季、菊、市樹は側柏、国槐 である。

観光地

天安門>(てんあんもん)

中国のシンボル。北京市の市街中心部に位置する。
明・清両期の皇城の正門で、創建は明の永楽15年(1417)。初めは承天門といったが、清の順治8年(1651)の改築後、現在名に改称。
宮殿建築の二階建ての楼閣で高さは33.7m。下の部分は城門で、通路が五つある。その城門の中央には毛沢東の肖像が掲げられている。
その上に建つのが天安門の城楼で、黄色の瑠璃瓦に赤い壁。きわめて壮麗である。
明、清時代には皇帝の即位や皇后の冊立などの重大な国事の際はこの楼上よりみことのりを発した。
1949年10月1日に毛沢東中華人民共和国の成立を世界に向けて宣言したのもこの楼上である。
城楼の下を流れる金水河には、精緻な彫刻を施した漢白玉石の「金水橋」と呼ばれる橋が五つ架かる。
前面には、雄壮な石獅と華表が一対ずつ配されている。
華表というのは中国で皇宮などの前に建てる標柱で、ここでは漢白玉石の円柱に彫刻が施されている。
また、正面には長安街をはさんで南側には東西500m、南北880mの天安門広場が広がる。
天安門を背に左には中国革命博物館・中国歴史博物館、右には人民大会堂がそびえる。中国の首都・北京を象徴する堂々たる景観を誇る。
現在は門の上に上ることが出来る。そこから見渡す天安門広場はまた格別。
楼内には、1949年10月1日に毛沢東が楼上から新中国の成立を宣言する場面を描いた絵が掛けられている。

人民大会堂>(じんみんだいかいどう)
日本の国会に当たる建物である。天安門広場の西側、高さ46メートル、南北の長さ336メートル、東西の長さ206メートル、建築面積17万平方メートル。
大会堂の正面は12本の大理石で支えられており、その高さは25メートル。
東の正面からはいると、そこは中央大ホール。床は桃紅色の大理石、柱は漢白玉の石柱、天井には水晶ガラスの灯りが吊されている。
全国人民代表大会などが開かれる大講堂は、中央大ホールの後ろにある。
また、大小様々な宴会場も大会堂には備えられており、それらには、「北京市の間」とか「黒竜江省の間」とか、中国の直轄市、省の名が付けられている。
最も大きな大宴会場は、5000名を収容できる。

故宮博物院>(こきゅうはくぶついん)
旧称を紫禁城といい、北京市の市街中心部にある。
明・清両代の皇宮で、明の永楽4年(1406)に着工、同18年に基本的に完成し、それ以来、560年余りの間に24人の皇帝が主となった。
72万??余りの敷地に9000室余りの建物があり、延床面積は約15万??。
周壁は長さ約3kmで、周壁の外側に幅52メートルの護城河(堀)がめぐらされてている。
東西南北に各一門があり、南が正門の午門、北が神武門、東が東華門、西が西華門である。
殿宇の配置は大きく外朝と内廷の二つに分かれる。外朝は、太和・中和・保和の三大殿が中心をなし、その両翼に文華・武英両殿を配し、皇帝が儀式を行い、群臣を召見するなど公的な場所であった。
内廷は乾清宮・交泰殿・坤寧宮と東六宮、西六宮などからなり、皇帝が日常の政務を処理し、后妃と皇子が生活し、祭祀を行うところであった。
故宮の建物には気迫がみなぎり、豪壮華麗で、中国の古建築の粋を集める。
勿論、博物館としても一級で収蔵品は百万点に及ぶとされる。北京随一の見所といってもよいだろう。1987年、ユネスコ世界文化遺産に登録。

<長城―八達嶺>(ちょうじょう―はったつれい)
延慶県にある。長城の要衝のひとつ。
長城の全長は6700kmで、「月から見える地上唯一の建造物」と言われる。
はるか春秋・戦国時代から諸侯の国がたがいに防御するために城壁を築いたのが起源で、中国を統一した秦がその城壁を基礎に万里も連なる長城を築き、今日の長城の規模が定まった。
その後も代々、改修して利用され、明代にいたって、北方ではいぜんとしてモンゴル族の進攻、
東北でも女真族の勃輿がみられたので、従来の城壁の版築の部分を磚・石造りに改め、西は嘉峪関(甘粛省)から東は山海関(河北省)まで1万余里(2400km)を整備し、城壁沿いに多数の烽火台を設けた。
八達嶺付近の長城は地形を利用し、高さ7.5m、厚さ約4mで、上部は騎馬が五列、兵士が十列で進むことができる幅をもつ。
防御上の必要から、尾根の高所、城壁の曲り角、重要な地点に堡塁式の城台を設けた。階上と階下に分かれ、階上には四面に鋸壁をめぐらし、階下は軍隊の駐屯や武器の保管ができるように空洞とした。
八達嶺では、入り口を入ると左右どちらにでも登れる。左右それぞれ「男坂」「女坂」と呼び習わされ、坂の角度に違いがある。
右の「女坂」の方が一般的かと思われるが、こちらも四つ目の城楼までくれば、山を縫って長城が延々と連なる様が見える。
この辺りの長城の修復は年々進んでおり、その気になれば、三時間でも四時間でも歩いて行くことが出来る。

頤和園>(いわえん)
北京市の市街から約15キロ、海淀区にある。
中国の名園のひとつに数えられる。歴代の皇帝の行宮・庭園であった。
造園は十二世紀なかば。金代に始まるが、離宮として整ったのは、清の乾隆帝以後のことである。
1860年に英仏連合軍によって破壊されたが、光緒14年(1888)に西太后が海軍の経費を流用して改修して現在名に改め、避暑地とした。
総面積は290ヘクタールで、そのうち4分の3は昆明湖の水面である。
頤和園は、西太后や光緒帝など清代末期の支配者のゆかりの地で、近代史との関係が深く、当時の重大な歴史的事件の痕跡を多数留める。
辛亥革命後、1914年に一般公開され、1924年に正式に公園となった。

円明園>(えんめいえん)
海淀区の東部にある。清朝離宮の跡。「万園の園」と讃えられる豪華きわまる庭園であったが、第二次アヘン戦争で英仏連合軍の徹底的な破壊を受け廃墟となった。
約350ヘクタール、周囲10キロの広大な庭園であった。
康煕48年(1709)に康煕帝の第4子胤禎(のちの雍正帝)に下賜され、その後改修と拡張を重ね、付設の長春園・綺春園(のちに万春園と改称)とともに円明三園と総称されるようになった。
建物や庭園は、中国の伝統的な技術を集めるとともに、西洋建築の特色も取り入れている。
円明園の正門を入ると、皇帝が政務を処理する正大光明殿があり、そのそばには江南の名園の名勝を再現した福海がある。
また、四庫全書を収めた文源閣をはじめ、俗に西洋楼というヨーロッパ風の宮殿と庭園も長春園の北部に造営された。
建物や景観だけでなく、書物や書画、文物や宝石を収蔵し、文化・芸術の宝庫であった。
このように、清王朝が150年の歳月をかけ営々と築いてきたものであったが、咸豊10年(1860)に英仏連合軍(第2次アヘン戦争)により、一瞬のうちに廃墟と化した。現存するのは長春園の西洋楼の残骸のみ。